JR新橋駅からほど近い、四方を飲食店に囲まれた桜田公園。
その広場の片隅で、周囲の喧騒をよそに若い男女がブランコに興じている。そんな二人を見下ろしているソメイヨシノは、大半の花を落とした葉桜だ。 東京の開花宣言は先月25日。すでに2週間は過ぎている。葉桜は若葉が芽吹いた2度目の春だ。白い桜の季節は終わろうとしているが、同時に新しい生命を育んだ青い春が始まっている。
暗闇にネオンの灯りが映える頃、僅かに残った花びらが、いたずらな春の夜風にあおられて宙を舞う。そして、帰れない二人をそのまま公園に残し、仕事に疲れたおじさんたちを、ゆらゆらと「ワンポール」に誘う。
ワンポール19時。
カウンターでは、むかし「山の下は渓谷」という月刊誌の編集長だった、通称「校長先生」が、キャビンのスーパーマイルドをくゆらせながらひとりで飲んでいた。
●ワンポール
JR新橋駅烏森口から、西口商店街通りを「新虎通り」に向かって数分歩くと、左手に5階建ての立地(リッチ)ビルがある。そのビルの2階にあるスナック。
店内は壁際にテーブル席が配置され、それに背を向けるかたちでカウンター席がある。そのカウンターは、いつも、長年通い詰めた旧い常連客の止り木になっている。
ママの名前は「椚(くぬぎ)まき子」。45歳。独身。
「あ、先生、日本酒お飲みなります。戴きもので恐縮ですけど。お花見も終わって歓送迎会も一段落して、新橋は急に静かになりましたわ。今宵のワンポールは先生お一人の貸切ですよ、笑 。こういう夜はお静かにカウンターで日本酒もよろしいかと、笑。お正月以来ですね、日本酒 」
カウンターの向こう側には、まき子ママと笑顔で頷く手持ち無沙汰の若い女の子が二人。
「あ、いいね。葉桜の夜に日本酒で在りし日に想いを馳せてか。
ま、今日はまだ時間が早いからね。夜が深まれば、いつもの常連の酔っ払い連中が挙ってママに会いに来るよ、笑 。
そうなったら僕は退散だ。
あ、せっかくの日本酒のご馳走だから、鈍燗にしてくれるかな」
「ドンカン…ですか?」
「うん、鈍燗。ぬる燗のことだよ。にぶい燗って書くんだ。居酒屋の店長が教えてくれたよ。ま、業界用語だね。もともとはどこか地方の方言だと思うけど 」
「ドンカン。ま、てっきりあたしのことだと思いましたわ 」とママと若い二人が声を出して笑う。
「ついでに、熱燗のさらに熱い燗酒を何と言うか 」
何だろうとママと二人の女の子が考える。
暫くして「あ、分かった」と白いワンピースの若い女の子。
「もしかして、燗にするのには邪道だけど、お酒をさらにレンジで温めるんじゃないかしら。レンジだから「チン」なんちゃって、笑 」と答える。
「おお、ほぼ当たりだ 笑。ま、実際は居酒屋でチンにしてと言えないけどね、笑。よくキンキンに冷えるって言うでしょ。その対義語を考えれば分かるよ。
イソノ………。あ、これは言えないな、笑 」
「イソノ………ナミヘイ?」と若い二人。
「イタリア語の乾杯ですね 笑 」とママ。
「当たり。じゃ鈍燗で乾杯しようか 笑 」
「あ、先生、昨日思わず笑っちゃいましたわ。偶然なんですけど、実は昨日いらした大宮のムーミンさんが、また燻製作ったそうで、食べるかいって置いていったんです。まったく前回と同じパターンですわね、笑。
先生お食べになります、メザシの燻製、笑。日本酒ですから焼いた方がよろしいんですけど。ムーミンさん、もうちょっと高級なお魚にすればいいのにね、笑 」
「いやいやメザシで結構。メザシは春の季語だよ、笑 」
メザシの燻製。
今回の燻製は、SOTOの「キッチン香房」を使った。
バーナーはストームクッカーL。キッチン香房の取っ手を折りたたむと、クッカーLにすっぽり入る。
メザシは干物を使った。
前日に自宅で一晩風乾。
スモークチップはサクラをひと掴み。弱火で約10分。
ピキピキと蒸し焼きの音がすれば完成。
「東京の桜はもう葉桜ですね。カワセミさんはとんがりテント担いでキャンプに行ってるのかしら。桜が咲いたら飲みに行きますって3月の初めころかしら、メールがありましたけど。咲くどころか、もう散っちゃいましたわね、笑 。3月は決算期で忙しいとも言ってらしたけど、もう4月も中旬ですよ、笑 」
「たぶん、彼は桜を求めて車を走らせているんじゃないかな。標高が高ければ、ちょうど今頃咲いているかもね 」
道志の森の桜は5分咲きだろうか。
標高1000m近くなると満開になるまでもう少し時間が必要みたいだ。
日中は暖かいのだが、朝晩の急激な冷え込みで、せっかく咲きかけた桜が朝顔みたいにしぼんでしまうのかも知れない。
でも、桜が満開にならなくても、これが道志の春なのか。
下界の桜はもう葉桜になっている。
道志の桜はこれから満開になる。
道志の春遠からじ。
新橋のスナック「ワンポール」22時。2次会の客で混み合う時間帯だ。
春の夜風に舞う一片の花びらに導かれて、ほろ酔い気分のおじさんたちが、今日一日の仕上げにワンポールのドアを開ける。校長先生の予言通り、うしろのテーブル席がいっぱいになってきた。カウンターの電話も鳴り出した。ママと二人の女の子はテーブル席に移り、カウンターでは日本酒からウィスキーに変えた校長先生がひとりで飲んでいる。つまみはサバの味噌煮。
「先生、お隣のお席よろしいかしら。今お電話頂いて、もう少しで小宮のJJさんがいらっしゃるみたいなんです 」
「うん?小宮のJJ。大宮じゃなくて小宮かい。あ、コミジェイか。そうか、コミジェイか、久しぶりだね。
相変わらず彼は元気かね。よし、ちょうどよかった。カウンターは彼に譲ろう。バトンを彼に渡してくれ。
ママ、僕はもう上がるよ。
え? 逃げる? そんなわけないよ。何を言ってるんだい、笑。
僕はコミジェイが大好きだよ。
いや~、久しぶりの日本酒がちょっと効いたかな、笑 。
じゃ、ママ、ごちそうさま 。コミジェイによろしく」
校長先生が帰って10分後、ダンダンダンと階段を駆け上がる音がして、チリンと鳴るドアチャイムの鈴の音がガチャンと潰れるように鳴った。
「ビンボー人の諸君、元気ですか~」
と、カラオケの音量よりも大きな声で、文庫本を片手に携えたコミジェイが、満面の笑みで現れた。
ジェイジェイジェイ。何事かと店内が静まりかえる。
でもそれは一瞬のこと。店内は再び満開の笑い声に包まれた。
「ありがとうございました。またよろしくお願いします」
最後のお客さんを一階まで見送り、思わず夜空を仰いだまき子ママの目に、月夜に浮かぶ葉桜はとても魅力的で力強く映った。
彼らはたくましく生きているんだ。よし、あたしも頑張ろうと、自分を励ますように2度3度頷き、雑踏の中に消えていくお客さんの背をじっと見守っていた。
23時30分。もうじきワンポールの一日が終わる。
もうお客さんは来ないだろう……たぶん。
久しぶりのキャンプだった。道志の森で今シーズン最後の薪ストーブかと期待したが、灯油ストーブが程よい暖かさで、何とか朝までしのげてしまった。
G.W.が来る前にもう少しキャンプがしたいものだ。
ひとりキャンプ。
今が絶好のチャンスなんだが、中々うまくいかない。
2月の大雪の道志の森を見ているせいか、今回どうしても春の道志に来たかった。
うれしいことに、宿泊代が、12日の土曜日まで200円引きのひとり1500円だったせいもあるが(笑)。